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因州和紙を中心に和紙をご紹介。

因州和紙の産地と歴史

因州和紙の産地と歴史

和紙の産地

 和紙は水と原料と人によって生産され、水の清き流れの所に産地があり、その土地に美しい紙が生まれました。
 原料はその土地で栽培されるか、又は容易に入手できる環境が必要であり、冬の積雪が多いところでは、夏は山で働き、冬には紙作りに一家揃って取り掛かったものです。

起源から江戸時代

 因幡の国、鳥取県東部地方の紙の歴史は、奈良時代あるいは平安時代に始まるといわれます。
その後、無名の時代が続きましたが、都に近い近国という天恵の利によって年を追って盛んになり、1600年頃(慶長年間)には御朱印船貿易品として輸出されるようになりました。
  
 江戸時代の鳥取藩史料によりますと、寛永年間には佐治(旧八頭郡佐治村)、家奥(旧八頭郡智頭村)、日置(旧気高郡青谷町)の名がみられ、別の史料にはこれに岩坪(鳥取市)、鹿野(旧気高郡鹿野町)、勝部(旧気高郡青谷町)など多くの村々の名が加わり、発展している様子が見られます。
 産地として技術を磨くとともに各地の技法の導入にも努めた結果、紙製品の種類も増えました。

 江戸時代の和紙原料のほとんどは楮でしたが、三椏(みつまた)紙の製造も1780年頃(天明年間)佐治に始まり、庶民の使用する紙として年々生産量も多くなっていきました。

 また、江戸中期以降には不足ぎみの楮の代替原料として、三椏(みつまた)のほか、麻、桑皮、野生楮、稲ワラなどの補助原料の利用が、一部の地域で需要の増加とともに進みました。

 なおこの時代、藩の政策で藩外への紙の移出も移入も禁止され、大坂の紙市場で因幡紙の姿を目にすることはできませんでした。

明治時代以降

 明治時代に入ると、鳥取県の指導により三椏(みつまた)栽培に力が注がれて、三椏(みつまた)原料が増産されました。
 三椏の繊維は、日本の一万円札の原料として使用され、他国に類のない優美さを持ち、良質な高級紙用として特徴があります。

 製紙工場数は江戸時代の約500工場から最盛期(明治30年頃)には、1300工場以上に増加しました。
主力製品は楮紙の傘紙、障子紙、美濃紙に加えて、大量に生産された三椏(みつまた)を原料とする改良半紙などがあります。

因州和紙に貢献した人々

 伝統産業となる和紙の発展に貢献された方々をあげてみると、今をさる380年前美濃の国の住人某が流浪して、青谷町において病となり鈴木彌平氏宅の介護により回復し、恩返しにと紙抄きの技を教えたといいます。

 佐治では、加瀬木の西尾半右衛門氏が佐治村の奥部は耕地が少なく、農業では生活できないと製紙業を興さんと志をたて、享保11年(約270年前)播磨の楷田村に行き、抄き紙法、紙抄き用具の製法を習得してこれを村内に広めました。

 また、明治20年四国の吉井源太氏*1より指導を受けた、藁原料の配合、カセイソーダ、晒し粉の利用方法、紙抄き用具の改良等により、鳥取県の製紙業界の活性化に大きく貢献しました。その後カセイソーダ使用の紙は改良紙と呼ばれています。

 明治34年青谷町山根の房安喜八氏は、原料叩解機として水車のビーダを初めて設け、それまでの手打敲がビーダの出現により次々と廃されていきました。同氏は鳥取県知事の功労賞を受賞されています。

 佐治村の田中兵十郎氏は明治34年単身上京して、紙の販売につとめ、色々と妨害を受けながらも、困苦と闘い(商標佐治川名産筆きれず)名声を挙げ、国産品の輸出を成し遂げました。
 上田礼之氏は佐治村の村長を務めながら佐治川産業の社長、鳥取県因州和紙同業会会長、全国手すき和紙同業界会長と鳥取県和紙の発展に数々の業績を残されました。

因州和紙の産地の検索

 次に、千代川流域の和紙産地を検索してみます。

 千代川流域のうち、八東川水系には不思議と和紙の産地がなく、わずかに若桜に或る期間紙抄き工場がありました。しかし、若桜地区には三椏がたくさん栽培され各方面に販売されていました。

 智頭川水系では、智頭町の篠坂は天保年間より中折紙を製造し、明治20年には姫路・大阪方面へ仙花紙の販路を開き、和紙産業の隆盛に努めていました。

 社村家奥(現鳥取市用瀬町)では、いまから350年前美濃の国より抄き紙の技術を習得、元禄の年代では奉書・杉原紙の製法を習得しています。
 明治30年代には元結紙を製造し、鳥取、津山方面に販売され、大正11年には製造戸数15戸を数えました。

 佐治村(鳥取市佐治町)では、気高郡日置村(鳥取市青谷町)と共に鳥取県和紙の主産地として、その起源も遠く350年に及びます。
 明治20年製紙教師吉井源太氏を招いて改良を図り、美濃紙、障子紙半切紙が作られます。その後、カセイソーダで煮熟された三椏原料で極めて薄い紙が作られ、改良紙複写用紙として販売されています。

 西郷散岐村(鳥取市河原町)では、小河内、神馬北村、山上の諸村はいずれも古くより紙を製造し、明治20年頃には半紙、半切紙、美濃紙を産出しました。

 神戸村岩坪(鳥取市岩坪)では、清水清録氏は旧来の慣習を破り、改革しようと明治29年鳥取市の島田豊吉氏の協力をいただき、ビータも福井県より買い入れ設置、効率の増進・品質の改善に精励し岩坪紙の名声を高めました。後に氏の徳を慕う碑が建てられ、後世に残る人となっています。
  
 第二次世界大戦中の戦時統制下で、和紙原料も製品も統制されるなか、戦争末期には因州和紙のその強靱で緻密な紙質によって風船爆弾用の気球紙製造を命じられることもありました。

戦後から現在へ

 戦中の統制物資の後、日本国中何もない期間が一時期あり、和紙も飛ぶように売れましたが、昭和28年頃より和紙需要の変化と、以前と変わらぬ生産方法からくる労働者の確保の困難性と共に、楮・三椏など原料の減少などの問題点が顕著となりました。

 機械漉きの改良紙などにその地位を徐々に譲りながら、輸出用コピー用紙や障子紙を作り続けました。

 時代の変化により生活様式も大きく変化し、和紙の販売が極端に減少し、廃業も止むなしとする業者も出て来、和紙の生産が消滅する状態が目前にありました。

 しかしながら、その頃から書道の普及が盛んになって、30年頃より書道用紙の生産が始まり、廃業した業者も復業して、鳥取県の和紙生産は書道用紙が大半を占めるようになりました。

青谷地区と佐治地区

 因州和紙の書道用紙や工芸紙の原料構成は、歴史上使用されてきた原料を基礎として組み立てられています。

 傘紙、障子紙の産地である青谷町の山根地区では、楮画仙紙が抄造され、同町の河原地区では、三椏(みつまた)半紙やワラ半紙そして漢字用画仙紙が抄造されています。

 一方佐治村内では、江戸末期〜明治期にはローカルな原料であった稲ワラなどの茎かん植物と三椏故紙などをほどよく配合した漢字用画仙紙を開発しました。工芸紙は長い歴史を持った楮紙に高度な染色技術で美しく染め上げたものです。
 
 この時代の特徴的な出来事としては、手漉きの画仙紙、書道半紙や工芸紙の生産が軌道に乗った頃に、タイミングよく短網抄紙機が導入され始め、機械漉きの書道用紙などの生産が開始されたことがあげられます。

 これによって作品用は高級な手漉き書道紙、練習用あるいは学生用は高品質で求めやすい価格の機械漉きの画仙紙、書道半紙という商品構成を整えることができました。

 以後、手漉き和紙と機械漉き和紙は共存し、調和よく成長を続け現在に至っています。
 
また「手漉き和紙」では伝統的な産地として、昭和50年に伝統的工芸品産業(和紙部門)として全国で最初の産地指定を受けました。

平成16年11月1日の新「鳥取市」誕生をもって、「青谷町」、「佐治村」はそれぞれ「鳥取市青谷町」「鳥取市佐治町」となりました。

鳥取県の地図


*1 1826〜1908 製紙改良技術家。1826年、高知県吾川郡伊野村(現在のいの町)生まれ。家は代々御用紙漉きで、幼少より俳諧、南画を学ぶ裕福な少年時代を送りました。紙漉きには並々ならぬ情熱をもって打ち込み、まず初めに大型簀桁を発明。紙の生産量が一挙に二倍から三倍に上がったといわれるほどの成果をおさめています。維新後、製紙に関する藩の束縛統制の撤廃によって、水を得た魚のように活躍を始めます。明治初年には、楮、三椏、雁皮混合の大小半紙といった新製品を各種開発、さらに、経済性・防虫のため米糊に代え白土の使用を始めました。また、精巧な典具帖紙の抄造など、数々の改良や技術の発明を世に送り出すとともに、最期まで、全国の製紙技術の指導に全力を尽くしました。

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